原爆の局

Japan flagIwamoto Kaoru (7p)
vs
Japan flagHashimoto Utaro (7p)
白五目勝ち

1945年8月6日。広島。午前8時15分。 ウラン弾「リトルボーイ」が都市上空で爆発した瞬間、日本最強級の二人のプロ棋士は郊外の宿舎で、封じ手の最初の106手を打ち直していた。三日目の新しい一手はまだ一手も置かれていなかった。その後に起きたことは、ボードゲーム史上最も異例の物語の一つとなった。

戦時下のタイトル戦

第三回本因坊戦は、現王者橋本宇太郎(白)と挑戦者岩本薫(黒)の対決だった。二人とも七段、全盛期。本因坊は日本の碁において今も最も権威あるタイトルの一つである。

第一局は7月下旬に広島市中心部で打たれた。第二局は警察の要請で、爆心地から五〜十キロの炭鉱会社宿舎・吉見園へ移された。新兵器の警告ビラが投下され、当局は慎重だった。対局は8月4、5、6日の三日間。

午前8時15分:世界が変わった

三日目の朝、棋士と立会人(瀬越憲作など)が集まり、封じ手局面を盤に再現した。8時15分、広島の空が白く光った。爆風が数秒後に会場に到達。窓が砕け、飛散ガラスで負傷者が出た。橋本宇太郎は吹き飛ばされた。建物は損傷したが、爆心地から離れていたため倒壊はしなかった。

衝撃の沈黙の後、壊滅的な何かが起きたと気づいた。負傷した生存者が市中心部から会場の前を通り始めた。

「対局を完結させよう」

スポーツ史を学ぶ人を今も驚かせる決断が続いた。被害を確認し応急処置の後、部屋をできる限り片付け、記憶から局面を再現した。短い昼休みの後、再開。午後から夕方にかけて、その日のうちに対局を完結させた。史上誰も経験したことのない状況の中で。

結果: 橋本宇太郎(白)五目勝ち。全譜は240手。

シリーズとその後

1945年本因坊戦は、日本の敗戦と戦後混乱の中でも完遂された。三勝三敗ののち、1946年の三番勝負で岩本が橋本を下し本因坊薫和となった。

二人とも長く輝くキャリアを送った。岩本は後に九段、碁の国際大使として世界を旅した。橋本は関西棋院を創設し、数十年日本碁の中心にいた。

なぜ語り継がれるのか

「原爆の局」は華麗な手筋や劇的なヨセで有名なのではない。歴史最大の悲劇の只中で、二人のプロが職業と相手への敬意を示し、始めたことを完遂したからだ。核の時代が始まった世界で、続ける本能、尊厳、一局への真剣さを示した。

1945年8月6日午前8時15分、106手目後の局面は棋譜に残り、現代の再現でも可視化されている。世界中の碁クラブと歴史書で、想像を絶する圧力下のプロ意識の静かな証として語られる。

主要資料:日本棋院当時の記録、記録係三輪嘉四郎の報告、Sensei's Libraryや本因坊戦標準参考文献の歴史家による整理。