耳赤の一局

Japan flagHoninbo Shusaku
vs
Japan flagGennan Inseki
黒二目勝ち

弘化3年(1846年)9月。大坂。 十七歳の神童が、日本四大碁家の一つ・井上家の当主と対局した。少年はまだ本因坊ではない桑原秀策、四段だが驚くべき実力を持っていた。相手は四十代後半の八段、井上玄庵因碩である。三日にわたる対局は耳赤の一局耳赤の一局)として永遠に語り継がれる。325手、コミなし、黒二目勝ち。盤上の一手が碁史の流れを変えた。

秀策、地方からの帰還

秀策は前の十八か月を江戸の圧力から離れ、尾道近くの因島で修行した。1846年7月に帰還した彼は、より鋭く成熟していた。夏、玄庵とまず二子の対局を打った。秀策の棋力はハンデを凌駕し、玄庵は勝ち目がないと見て打ち切りにした。納得はいかないが感心し、分先の再戦を組んだ。再戦は翌月大坂で、9月11、14、15日の三回に分けて打たれた。初日は天王寺の辻忠次郎邸、二日目は源斎一郎邸(名手が打たれる)、三日目は中川順雪主催の碁会・中之島紙屋邸。当時の慣習で白番の手番で中断し、再開のタイミングも白が選んだ。

玄庵の大斜の罠

玄庵は右下に大斜定石を仕掛けた。五方向に戦いが広がる複雑な形で、彼の得意武器であり、開発にも関わった。数か月前に記録に現れたばかりの変化で、秘密を知らない相手を捕らえる狙いだった。秀策は初めて向き合い、25手を現代の定石では誤りとされる打ち方で応じた。黒はもっと安全なスライドが望ましかった。玄庵はその応手を見て優位に違いないと感じただろう。続く大斜の戦いは白有利に終わり、63手までに黒は先手の利を失った。

序盤・中盤の大半、玄庵の棋は見事だった。前半は白の傑作と評される。秀策は厚く、粘り強く、崩れなかった。

127手:耳赤の一手

二日目、源斎邸で局面は決定的な分岐に達した。白は126手で繋ぎと攻撃を仕掛け、黒の弱い中央の石を脅かした。秀策は127手で応じた。攻防の要となる一手が、この一局を不滅にした。

隣室では中川順雪と玄庵の弟子たち、地元の碁好家が打ち直しと検討をしていた。プロ棋士たちは玄庵の勝利を疑わなかった。しかし盤を直接見ていた医者だけが異なる予想をした。問われて彼は言った。「碁はよく分かりませんが、秀策が打ったとき玄庵さんの耳が赤くなりました。動揺のしるしです。この一手は想定外だったのでしょう。」

この一手は四方向に働いた。126の攻撃を軽く受け、下の危うい黒四子を助け、上の黒の模様を広げ、右の白の厚みの影響を減らし、左の白陣への侵入・削りを狙った。宮本直樹からジョン・パワーまで、後世の評論家はここを転換点、主導権が玄庵から秀策へ移り始めた瞬間とする。

必死の終盤

秀策は即座に大差をつけたわけではない。コミなしで每一目が重い極めて僅差の局が続いた。127手以降、黒はゆっくり主導権を奪った。終盤、玄庵は長く支配していた一局の逆転に傷ついたのか、229手からコウを仕掛け、現実的には勝てないコウを311手まで続けた。パワーは『秀策無双』において、長く優位だった一局を失った屈辱の表れと読む。

325手で秀策は二目勝ち。同世代最強の一人である玄庵を、十代の少年が分先で下した。

その後と遺産

秀策が江戸に戻ると、この局を含む成績が未来を決めた。五段に昇格し、本因坊家の後継に指名された。江戸後期最大の棋士への道が開かれた。玄庵は1859年の死まで井上家の中心にいた。耳赤の一局は両世代を結ぶ決定的な対局として残る。

この局は碁の正典から外れたことがない。パワーの『秀策無双』、宮本直樹の古典評、Sensei's Libraryに載る。『ヒカルの碁』でも進藤がこの棋譜を学ぶ。現代AIはより複雑な評価を示し、左上への押し出しが127より好まれることも、棋士は同種の中央の一手は一流なら打てると指摘する。それでも医者と赤い耳と、屈しない少年の物語は残る。一手が超自然的だったからではなく、天才を認めるのが遅すぎた衝撃を、一瞬に凝縮したからだ。

主要資料:ジョン・パワー『秀策無双』(石榮Press、1982)、宮本直樹九段の評、Sensei's Library・GoGoDの歴史記録。