玄庵の名局
黒四目勝ち
文化12年(1815年)3月。江戸。 まだ井上玄庵因碩と呼ばれる前、井上家の当主となる若き棋士服部律哲は、のちに本因坊丈和・碁道指南となる鹿野丈和と激しいライバル関係にあった。文化12〜13年にかけて打たれた21局の対局は、文化期を代表する争いの一つである。本局は3月7日と12日に打たれ、玄庵の名局として今も語り継がれる。223手、コミなし、黒四目勝ち。
日本碁の二つの未来
律哲は井上派の四段の神童で、まだ養子入り前の本名を名乗っていた。丈和は本因坊系の五段で、まだ名人ではないが、鋭い戦いと政治的手腕で恐れられていた。当時、段位・家元政治・棋力は切り離せなかった。一局が数十年にわたる評価を左右することもあった。
対局
律哲が黒を取り、古典的な布石で始めた。丈和はのちの治世を象徴するような、堅実で地に足のついた応手を見せた。中盤は模様の攻防へ。黒は白の勢力を探り、白は地を固めつつ先手を保った。史家はこの局での律哲のタイミングと読みを、若き四段が上段の相手に対してすでに同世代最強の一角だった証拠として称える。
223手の終局時、コミなしの時代のルールで黒は四目のリードを保った。丈和は投了に至った。この棋譜は玄庵の青春の傑作として碁史に残り、江戸期の名局調査でも繰り返し引用される。
遺産
二十年後、丈和と玄庵の家は再び激突する。1835年の吐血の局では、玄庵は赤星烈哲を代理として送り出した。しかし1815年の争いはまだ碁盤の上で直接行われており、読みが冴えたとき玄庵が丈和を分先で下せたことを示す一局である。
本記事の主要資料:CWI Amsterdam棋譜アーカイブ(GoGoD由来、RE[B+4]、223手)、VitWiki名局索引、Sensei's Libraryの丈和・律哲21局対局記録。